大判例

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静岡地方裁判所 昭和49年(ワ)420号 判決

主文

一  被告は、原告斎藤利秋に対し金七八二万五八三九円、原告斎藤定明に対し金九一一万五八三九円、原告望月鴻男に対し金一一六六万九五〇〇円、原告望月春枝に対し金五五万円、原告望月基久子に対し金二〇万円、原告望月均に対し金二〇万円、原告有限会社円山に対し金六八二万九七三五円、原告片山京子に対し金七三一万九八七八円、原告片山百合子に対し金一八四万四八〇〇円、原告片山明彦に対し金三五〇万一六〇〇円及びこれらに対する昭和四九年七月八日から各完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用は、これを一〇分し、その七を被告の負担とし、その二を原告斎藤利秋、原告斎藤定明、原告望月鴻男、原告望月春枝、原告望月基久子、原告望月均の負担とし、その一を原告有限会社円山、原告片山京子、原告片山百合子、原告片山明彦の負担とする。

四  この判決は、第一項に限り、仮に執行することができる。

事実

当事者の求める裁判及び当事者の主張並びに証拠関係は、別紙のとおりである。

理由

一  当事者

1(一)  請求原因1(一)の事実は、当事者間に争いがない。

(二)  請求原因1(二)の事実のうち、原告望月春枝が原告望月鴻男の妻、原告望月基久子がその長女、原告望月均がその長男であることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、原告望月鴻男は、本件事故当時、別紙物件目録(一)記載の建物を所有し、原告望月春枝、原告望月基久子、原告望月均とともに右建物に居住していたことが認められる。

(三)  〈証拠〉によれば、原告有限会社円山が別紙物件目録(二)記載の建物を所有していること並びに本件事故当時、原告片山京子が同目録(三)、(四)記載の建物を、原告片山百合子が同目録(五)記載の建物を、原告片山明彦が同目録(六)記載の建物をそれぞれ所有していたことが認められる。

2  請求原因2の事実は、当事者間に争いがない。

二  本件事故の発生

昭和四九年七月七日から同月八日にかけて静岡県一帯を襲った七夕豪雨の際、本件リフト施設の転回塔と山頂駅との間の本件リフト擁壁が、二個所にわたって崩壊し、また、本件リフト施設東側斜面も、右リフト擁壁の崩壊部分に対応する形で崩壊していることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、本件リフト擁壁の崩壊部分の長さは、南側崩壊部分が約二四メートル、北側崩壊部分が約三八メートルであること並びに崩壊したリフト擁壁の柵板・支柱・コンクリート基礎やリフト道床及び崩壊斜面の土砂が、右斜面下に存在していた原告らの建物を含む一〇数戸の建物等に崩れ落ちたことによって、右一〇数戸の建物等が全壊又は半壊し、また、原告らの親族を含む八名が死亡するという本件事故が発生したことが認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

三  本件リフト施設の瑕疵

1  本件リフト施設の概要

(一)  本件リフト施設が静岡市大岩賤機山東側斜面に沿ってほぼ南北に設置されていたこと、その山麓駅が同市丸山町一三番地所在東雲神社の南西側にあり、ここから北西方向約一九二メートルの地点に転回塔、転回塔から北の方向約一四〇メートルの地点に山頂駅があったこと、右山麓駅の本件リフト道床表面の標高が三五・二メートル、転回塔付近の道床表面の標高が七八・七五メートル、山頂駅付近の道床表面の標高が一一二メートルであることは、いずれも当事者間に争いがない。

(二)  転回塔と山頂駅との間の本件リフト道床の東側斜面がおよそ三〇度ないし四〇度の急傾斜地になっており、その下方の丸山町及び大岩本町に、原告らを始めとする本件事故の被災者の建物が所在しあるいは所在していたことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、本件リフト道床の東側斜面は、みかん畑であるが一部にお茶の木なども植えられていたことが認められる。

(三)  本件リフト道床の幅が約六メートルで、表面には芝が張られ、谷側が本件リフト擁壁によって土留めされ、山側に道床に沿ってコンクリート製の側溝が設けられていることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、本件リフト道床は、山側斜面を切り取ってその土で谷側を盛土することによって平らな道床面が作られており、また、リフト道床山側の側溝の幅が約二四センチメートル、深さが約二五センチメートルであることが認められる。

2  本件リフト施設の設置方法

被告が、浅間神社と賤機山の山頂展望を結び付けるべく、本件リフト施設を延長三三二メートルにわたって設置したこと及びリフト全長のうち少なくとも山頂駅に近い部分約一三〇メートルが尾根下に設置されていることは、当事者間に争いがないところ、原告らは、このようにリフト施設を尾根下沿いに横に設置すること自体が、施設の設置方法の瑕疵に当たると主張する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、本件リフト施設は、地方鉄道法一条三項に基づき制定された運輸省令第三四号索道規則に定める「椅子式搬器を使用して人を運送する索道」のうち、「甲種特殊索道」に該当すること、右規則によると架設されているリフトのワイヤロープの勾配は三〇度以下に規制されており、かつ、椅子式搬器の下端は地表面又はこれに代わるべき適当な構造物の表面から五〇センチメートル以上二メートル以下の高さとなるように設けることが義務づけられているため、地表面(道床面)の勾配も三〇度以下にしなければならないこと、本件リフト山頂駅の東側斜面の勾配は平均三四度であるから、リフト施設を尾根稜線に垂直方向に設置するとすれば右索道規則に反することになること、本件リフト道床の勾配は山麓駅に近いところで最大二八度になるところがあるが、転回塔から山頂駅までの平均勾配は約一七度であって、利用客にとって格別危険なものとはいえないことが認められるから、本件リフト施設を尾根稜線に垂直方向に設置せずに尾根下沿いに横に設置したこと自体に、設置方法上の瑕疵があるとまでは認めることができない。

3  本件リフト擁壁の構造とその安全性

(一)(1) 〈証拠〉によれば、本件リフト擁壁は、無筋コンクリートの連続基礎を設け、基礎の上端に一メートル間隔であらかじめ柱を建てる穴をあけ、縦一五センチメートル、横一二センチメートルの既製の鉄筋コンクリート製角柱を立てて、支柱間に幅二〇センチメートル、厚さ六センチメートル、長さ二メートルの鉄筋コンクリート製柵板を横方向に渡して組み立てたプレハブ構造の柵板工擁壁であること、斜面に設置される擁壁の構造としては、鉄筋コンクリート造のL型もしくは逆T字型擁壁、控え壁付擁壁、コンクリートの重力式擁壁、コンクリートブロック等の石材を用いた練石積み擁壁等が一般的であり、本件リフト擁壁のような柵板工擁壁は、土木工事の際の仮設構造物としての土留め、簡易下水・用排水路・小河川等の護岸の土留め、平地における道路ないし鉄道施設等の土留めとして使用されることが多く、本件のように山の尾根下沿いの急傾面の土留めとして使用することは特殊な例に属すること、柵板工擁壁は、支柱と壁板との組合せによるプレハブ構造であるため、各部材の接合部や仕口部の関係から、鉄筋コンクリート擁壁に比較して変形に対する粘りや構造の一体性等の点で劣り、一体性点では、練石積み擁壁と同程度のものであることが認められる。

(2) これに対して、被告は、柵板工擁壁は、JISに定められた「鉄筋コンクリート組立土留メ」として、鉄道、道路、水路等の施設に多数使用されており、特殊な構造ではない旨主張する。しかしながら、被告が右主張に沿う証拠として挙げる乙第二四号証の一ないし二四の写真の柵板工使用例のうち同号証七ないし二四の事例は、いずれも平地における土留めであって、柵板工の背面にそれほど土圧・水圧がかからないものであると認められ、また、同号証の一ないし四の事例は斜面における使用例であるが、高さも低く規模も小さいもので、斜面における一時的な土留めのために設置されたものと認められるので、これらの使用例は、本件リフト擁壁の使用形態とは異なるものであって、本件リフト擁壁の安全性を判断するにあたって参考とすべき使用例にはなり得ないといわざるを得ない。僅かに同号証の五及び六の使用例(同一場所)のみは、斜面の中腹に設置され、柵板工の背面に土圧・水圧がかなりかかる事例であると窺われるが、右写真によれば、右斜面は比較的緩やかで短い斜面であるうえ、右写真のみではこの柵板工擁壁がどのような地盤、排水状況の下でどのようにして設置され、どのようにして保守・管理されてきたものかが明らかではないから、この一事例をもって、柵板工擁壁が急斜面の土留めとしては特殊な構造ではないとするには足りないものというべきである。

(二)  〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件リフト擁壁の基礎コンクリートは、断面が台形状で底面の幅が四五センチメートルから五五センチメートル、上面の幅が約三〇センチメートル、高さは、八〇センチメートルから一二〇センチメートルで、この基礎は、深いところで一二〇センチメートル、浅いところで二五センチメートル、平均して七〇センチメートルから八〇センチメートル地中に根入されている。

(2) 本件リフト擁壁基礎部での表土層の深さは、平均五〇センチメートル位で、その下にレキ混りシルト層が約二・三メートルの厚さで存在し、更にその下に風化岩が存在し、右レキ混りシルト層は、一平方メートル当たり一〇トンの荷重に耐えられる地盤である。

(3) 本件リフト擁壁においては、柵板工の支柱二本ごとに一本の割合で支柱の頭部を鉄製ワイヤー(直径約四ミリメートル二本)で結び付けて道床内に埋め込んだ木製の控杭で引っ張っているが、このワイヤーと木杭は、もともと本件リフト擁壁設置工事中の柵板工の垂直性を保持させるための修正用に設置されたものであり、タイバックの役目を持たせる意図で設置されたものではない。

(4) 控杭が腐食しやすい木製であること、ワイヤーにはいずれも錆が発生し、新品のワイヤーに比べると強度がかなり劣っていたこと、また、本件リフト擁壁は、昭和三五年の設置後、支柱が谷側に傾いたためこれを引起こす補修がなされた部分があり、このような部分では控杭が抜けたり、ワイヤーが切れたりしていた可能性が高いことなどから、本件事故当時には、右ワイヤー及び控杭による擁壁の支持力は極めて低かった。

(5) 鑑定人古藤田喜久雄が本件リフト擁壁の平均的な断面(基礎上端から柵板工上端までの高さ一四五センチメートル、地表から基礎上端までの高さ三五センチメートル、基礎の根入れ部六〇センチメートル、基礎底面の幅五〇センチメートル)について行った安全率の計算(但し、控杭とワイヤーによる支持力は、考慮に入れられていない。)に基づいた場合、降雨時に道床内の水位が擁壁基礎上端の九五センチメートルの高さまで上がった段階では、まだ安全率は一を超えていて崩壊する危険がないが、水位がさらに柵板二枚分すなわち四〇センチメートル程上がった段階で安全率がちょうど一になり、それ以上に水位が上がると、本件リフト擁壁は、土圧及び水圧によって、基礎もろとも転倒するかあるいは水平に滑って壊れる計算になる。

(三)  右(一)、(二)の事実によれば、本件リフト擁壁は、通常の状態における土圧に対しては耐えることができるが、降雨時に擁壁の背面に水が滞留して擁壁基礎及び柵板工背面に水圧が加わった場合には、十分な安全性を保持し得ず、崩壊する危険があったものというべきである。

4  本件リフト擁壁の排水機能

(一)  本件リフト擁壁には、排水穴が設けられておらず、また、擁壁背面に割栗石等が込められていなかったこと、本件リフト施設の設計図によれば、南北崩壊部分の道床山側斜面は、裏込割栗石を込めた玉石積擁壁とすることになっていたが、実際には玉石積擁壁が作られずに切土のままになっていたこと、同じく設計によれば、道床山側排水溝断面は、三〇センチメートル×三〇センチメートルであったにもかかわらず、実際の施工では深さ二五センチメートル×幅二四センチメートルでしかなかったことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 本件リフト擁壁の柵板工には、プレハブ構造であることの性格から、施工工事の際あるいはその後の土圧等によって柵板と柵板の間がずれて隙間が生じており、鑑定人古藤田喜久雄が調査した三個所の柵板工における開口部分の面積を合わせると、壁面三平方メートルあたり五一〇平方センチメートルとなり、この隙間からある程度の排水が見込まれるが、右隙間は、作為的に作られたものではないため、右三個所においても広いところでは二〇ミリメートルから二一ミリメートルの隙間があいているが、隙間が一ミリメートル以下でほぼ密閉されているところも多く、隙間の分布が不均衡である。

(2) 例えば、七ミリメートルの細長い隙間の場合には、直径七センチメートルの水抜孔の二五分の一の透水係数しかないので、隙間の合計面積が大きいからといって排水能力が高いとはいえないこと、隙間の分布が不均衡であること、裏込め割栗石等が設けられていない道床の盛土によって隙間が目詰まりすることなどから、本件リフト擁壁の柵板の隙間からの排水能力は、宅造法に定められた水抜孔に比べるとかなり劣るものである。

(3) 本件リフト施設の設計図によれば、リフト道床面の横断の傾斜は、ほぼ中央から山側へ二パーセントの下り傾斜で中央から谷側擁壁側へは水平となっていて、擁壁の上端と道床面が同じ高さとなっており、道床路面を流れる水のうち山側半分が側溝の方へ流れ、谷側半分が道床面の自然傾斜に沿って流れるように設計されていたが、実際の断面は、ほとんどが谷側傾斜となっている。

(4) 本件リフト施設設置後盛土の沈下によって道床面が擁壁より下がったことに加えて、道床の擁壁側に設置してあった枕木の階段を昭和四六年に撤去した際に地表をならしただけで盛土を足すことをしなかったことから、本件事故当時には、擁壁上端は、道床面より二〇センチメートル位高くなっており、このため、大雨の時には、リフト道床面を流れる水は、擁壁上端部に集中するようになっていた。

(5) 本件リフト道床の山側斜面が切り土のままで斜面の保護がなされておらず、また、その下部にある側溝に網等も被せられていなかったため、豪雨の際には、山側斜面が崩れてその土砂が側溝を埋め、リフト道床山側からの表流水が全てリフト擁壁側に流れる危険性があった。

(6) 昭和四三年七月六日の豪雨の際にも、本件事故で崩壊した本件リフト道床山側斜面と同じ場所が崩れて排水溝を埋め、本件事故における北側崩壊部分の山頂駅に寄った位置のリフト擁壁が、谷側に倒れる形で崩壊する事故が発生している。

(7) 転回塔から山頂駅までの間の本件リフト擁壁のうち本件事故で崩壊を免れた部分は、いずれも支柱が谷側に傾斜し擁壁全体が五度ないし一〇度位傾斜していたこと、本件リフト擁壁が本件事故以前にも何度か支柱が谷側に傾き、これを引起す補修が行われていることなどから、本件リフト擁壁は、本件事故前においてもかなり谷側に傾斜していた可能性が高い。

(8) 右のように、本件リフト擁壁上端が谷側に傾斜すると、リフト道床盛土と擁壁の間に隙間ができ、そこをつたってリフト道床下部へ表流水が浸透し易くなる。

(二)  以上の事実によれば、豪雨の際には、本件リフト背面に雨水が浸透して道床盛土の水位を上げ、前記3(二)(5)における安全率一を下回る状態を発生させる危険があったというべきである。

(三)(1) これに対して、被告は、本件リフト道床表面には芝が張られ、南北方向に平均一七度という大きな勾配がとられていたので、道床上の表流水は、道床上を北から南に一気に流下し、表流水が本件リフト道床内部に浸透する余地がないから、谷側片勾配が本件リフト擁壁の安全性を阻害することにはならない旨主張し、〈証拠〉にはこれに沿う部分があるが、本件リフト道床表面が谷側に傾いていれば、道床表面に芝が張られ、南北方向に平均一七度の勾配になっているとしても、表流水は、本件リフト擁壁上端に寄って南に流下し、リフト擁壁背面に水が浸透し易くなることには、経験則上容易に窺われるところであるから、本件リフト擁壁の谷側への片勾配が擁壁の安全性を損ない、あるいはこれを減殺しているものといわざるを得ない。

(2) また、被告は、本件リフト道床盛土は、浸水係数の著しい低い土であるから本件リフト擁壁背面土への浸透水の発生がほとんどない旨主張し、それを裏付ける証拠として、鑑定人大草重康の鑑定結果における本件リフト道床盛土の浸水係数の調査結果を援用する。

しかしながら、〈証拠〉によれば、同鑑定人による道床浸透係数の調査は、本件リフト道床盛土のうち土のみをサンプルとして採取して試験したものであることが認められるところ、〈証拠〉によれば、本件リフト道床の盛土は、レキ混りの土でレキの中にはこぶし大以上のものも含まれていること、比較的大きな石等が土中にある場合、重力で土が次第に締まって安定してゆく過程で石の周囲が締まり難いために、浸水係数が大きくなり、流速が大きくなって、その周囲が浸食されてゆく可能性があること、土中に木の根や草の根等が混在していると、これらが腐食する等の理由によってそこに水道ができて水が浸透し易くなること、本件リフト道床は、山側斜面を切り取ってその土で谷側を盛土しているため、地山の表土に含まれていた木の根や草の根等が混入していた可能性が高いことが認められ、右認定に反する証拠はないから、道床盛土から採取された土の試験結果において浸水係数が低く出ても、そのことによって直ちに道床盛土への鉛直浸透水の発生が否定されることにはならないというべきである。

また、〈証拠〉によれば、神戸大学教授田中茂と同大学助手沖村孝が共同して、本件崩壊斜面の五二箇所の測点において鉄製円形モールドを約二センチメートル土中に打込み、このモールド内に常に水深五ミリメートルの水が湛水させるように外部から水を連続的に補給し単位時間毎の水の補給量を計測する方法による浸透能の測定を行った結果として、土の浸透能は、赤褐色土一四四五・六六(mm/hr・以下同じ)、黒褐色土九六〇・四五、黒色土一八三・五四、黄褐色土一三六・一〇、基岩(風化)六〇五・九一であり、本件リフト道床山側斜面切土が二三・八五、本件リフト道床盛土が二一七・二六、山頂広場が三七・九〇であったとしているところ、これによれば、本件リフト道床盛土は、南北崩壊斜面の表土を形成する赤褐色土や黒褐色土に比べると浸透能が低いことが認められるが、人の通行によって踏み固められた山頂広場などに比べると浸透能が遥かに高いことが明らかであるから、右測定結果によっても、本件リフト道床の盛土が崩壊斜面の表土に比べるとやや難透水性の土であるということはできるものの、道床盛土への鉛直浸透水の発生を否定する根拠にはなりえないというべきである。

(3) 更に、被告は、本件リフト道床がターンテーブル付近の木製道床と接する「出隅」部分は、南と東の二面が鍵の手状に柵板工擁壁と枕木で支えられているため、本件リフト擁壁の南北崩壊部分より遥かに条件が悪いのにもかかわらず、本件事故時において倒壊を免れていることからすると、本件事故において、南北崩壊部分の柵板工擁壁が背面からの土圧及び水圧によって独自に崩壊したとは考えられない旨主張するが、〈証拠〉によれば、南側崩壊部分の南端から約一〇メートル山麓駅寄りの地点から右「出隅」部分にかけては、本件事故前年の昭和四八年に、柵板工の支柱を引起し、鉄パイプで控杭をとってタイバック(ワイヤーで後方に牽引)する補強が行われていたことが認められ、右タイバックは、前記3(二)(3)、(4)の本件リフト施設設置の際に設けられた木杭とワイヤーによる牽引に比べると擁壁の支持力は極めて高いと考えられるので、このようなタイバックのなされていなかった南北崩壊部分に比べて右「出隅」部分の柵板工擁壁が条件が悪かったとはいえず、被告の右主張は採用することができない。

5  以上のとおり、本件リフト擁壁は、豪雨時に背面からの土圧及び水圧によって崩壊する危険があるというべきところ、後記四1(一)のとおり、本件リフト擁壁は、降り始めからの積算雨量が、約二二九・五ミリに至るまでに崩壊しており、〈証拠〉によれば、この程度の降雨量は、静岡地方気象台の過去の観測データーにおいても数回あることが認められるので、その東側斜面がおよそ三〇度ないし四〇度の急傾斜地となっており、その下方に原告らを始めとする本件事故の被災者の建物が多数所在していたことを考慮すると、本件リフト擁壁は、山の尾根下沿いの急斜面の土留めとして通常要すべき安全性を欠いていたといわざるを得ない。

四  本件リフト施設の瑕疵と損害との因果関係

1  本件事故の状況・経過

(一)  本件事故時の降雨量

静岡市曲金所在の静岡地方気象台の観測データーによれば、昭和四九年六月二七日から本件事故の前日の七月六日までの一〇日間の降水量が合計二四八ミリ、本件事故当日の七月七日の午後九時までの積算雨量が二二・二ミリ、午後一〇時までが九八・〇ミリ、午後一一時までが一六九・〇ミリ、午後一二時までが二二九・五ミリであったことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、翌日の七月八日の午前一時までの積算雨量が二七五・五ミリ、午前二時までが三三九・五ミリ、午前三時までが三九〇・〇ミリ、午前四時までが四六六・〇ミリ、午前五時までが四八一・五ミリ、午前六時までが四九五・〇ミリ、午前七時までが五〇七・五ミリ、午前八時までが五〇八・〇ミリであったことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

そして、右〈証拠〉によれば、集中豪雨の場合は、局所的に強雨があるのが普通であり、本件の七夕豪雨の場合も、ほんの僅かな距離しか離れていない地点で非常に異なる雨の降り方をしていること、静岡大学の木宮一邦・岩橋徹両教授は、静岡近傍の一九の観測地点の観測資料をもとに時間毎の積算等降雨量線図を描き、これによって、本件の南北崩壊斜面における昭和四九年七月七日の午後一一時一〇分までの積算雨量を一五〇ミリと推定していること、右両教授による同日午後一〇時から一二時までの積算等降雨量線図(〈証拠〉)においては曲金の静岡地方気象台の観測地点より本件の南北崩壊斜面の方が積算雨量が少ない方に描かれていることが認められるので、本件の南北崩壊斜面の同日午後一〇時ないし午後一二時までの積算雨量は、前記の静岡地方気象台の積算雨量のデーターより若干低めであったと推定するのが相当である。

(二)  本件事故の発生時間

(1) 〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

〈1〉 昭和四九年七月七日午後九時頃から、雨が本格的に降り出し、午後一〇時頃に南側崩壊斜面の裾部にある田村宅山裾の玉石積擁壁が小崩壊して別紙建物配置図の田村宅納屋2を全壊させ、また、山側からの流水によって田村宅納屋3が、斎藤宅との間の道路に滑り落ちて道路を塞いだ。

〈2〉 そして、午後一一時一〇分頃から三〇分頃までの間に、雷のような音とともに一回目の大崩壊が発生し、押し寄せた土砂その他の落下物によって、斎藤宅との間の道を塞いだ状態にあった田村宅納屋3が、斎藤宅の三畳間と六畳間の間に突っ込んだ。

〈3〉 田村宅納屋3が突っ込んだ後、原告斎藤定明が、外に出て見たところ、田村宅納屋3の山側及び納屋のまわりは、土砂が山のようになっていたが、このときには、望月・橋本宅前の道路には土砂がほとんどなく、通行も可能であった。

〈4〉 そして、午後一二時少し前頃、ジェット機が低空飛行したような轟音がして、賤機山の斜面に二回目の大崩壊が発生し、北側崩壊斜面から、松源寺の門前あたりまで土砂等の落下物が押し寄せ、望月宅にも、別紙建物配置図の〈イ〉の方向から土砂が進入した。

〈5〉 二回目の大崩壊の五分から一〇分位後に、やはりジェット機が飛んでくるような金属音とともに三回目の崩壊が発生し、北側崩壊斜面から押し寄せた土砂等の落下物によって、別紙建物配置図の水谷宅等の家屋が押し潰された。

(2) 〈証拠〉には、午後一〇時頃に田村宅納屋が斎藤宅の玄関に突っ込んだ旨の供述部分があるが、前掲〈証拠〉の静岡市役所発行「七夕豪雨」の抜粋には、「丸山町、七日二三時一〇分、排水管がいつ水、一時床下浸水、賤機山南面崩壊のおそれあり、特に山下の寺院が危険と認む。」と記載されていることからすれば、午後一一時一〇分の時点では、いまだ本件リフト施設東側斜面に大規模な崩壊が発生していないとみられること、また、原告望月鴻男自身、田村宅納屋が斎藤宅に突っ込んだ後も、山が崩れるという感じがしなかったとも供述しているので、原告望月鴻男は、午後一〇時頃に発生した田村宅納屋3が道路を塞いだ事実と、その後に発生した南側崩壊斜面の大崩壊によって田村宅納屋3が斎藤宅に突っ込んだ事実とを混同しているか、思い違いをしているものと窺われ、同原告の右供述部分も前記認定を左右するものではないというべきである。

(三)  崩壊した土及びコンクリートの量

(1) 静岡市街路課が本件南北崩壊斜面下の土砂及びコンクリートブロックの搬出量を調査した結果が、土砂二四〇二立方メートル、コンクリートブロック七・五六立方メートルであることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

〈1〉 本件事故によって本件リフト擁壁は、南側崩壊部分において約二四メートル、北側崩壊部分において約三八メートルにわたって崩壊したが、この崩壊部分のコンクリートの重量(単位体積重量二・五t/立方メートルで計算)は、擁壁支柱が、南側崩壊部分二四本で約二・一六トン、北側崩壊部分三八本で約三・四二トン、柵板が、南側崩壊部分約七・二五トン、北側崩壊部分約一一・二五トン、擁壁基礎が、南側崩壊部分約一六・八トン、北側崩壊部分約二六・三トンで、合計すると南側崩壊部分が約二六・二一トン、北側崩壊部分が約四〇・九七トンである。

〈2〉 右本件リフト擁壁部材のうち、擁壁基礎のコンクリートブロックが六個、擁壁支柱が約一五本、柵板が四〇枚以上南北崩壊斜面上に止まり、残りが山麓に落下したが、南北崩壊斜面上に止まった擁壁基礎コンクリートブロック六個の合計重量は、約一九・八トンで、山麓の原告ら建物敷地などからは、本件事故後、擁壁基礎と思われる大きなコンクリートの固まりだけで、一六個搬出された。

〈3〉 本件リフト道床盛土部分の崩壊土量は、南側崩壊部分が約三九立方メートル、北側崩壊部分が約一二四立方メートルであるが、本件リフト擁壁の南北崩壊部分とも、その直下からえぐられたような形で比較的大きな単位で斜面が崩壊しており、この部分の崩壊土量を合わせると、右崩壊土量は、その数倍にも達する。

(2) そして、〈証拠〉によれば、静岡市街路課が調査したコンクリートブロックの搬出量七・五六立方メートルの内訳は、三m×〇・六m×〇・六m×七個であることが認められるから、右コンクリートブロック搬出量の調査結果は、山麓に落下した本件リフト擁壁部材のうち擁壁基礎のみを調査したものであることが明らかであるし、また、右コンクリートブロックの搬出量の調査結果は、単位体積重量一立方メートル当たり二・五トンで計算した場合約一九トンになるが、崩壊したリフト擁壁基礎の重量が、四三・一トンで南北崩壊斜面上に止まった擁壁基礎六個の重量が約一九・八トンであるから、山麓に落下した本件リフト擁壁部材の量は、静岡市街路課の調査結果よりかなり多いというべきである。

(3) 鑑定人古藤田喜久雄の証言中には、同人が鑑定書において記載した崩壊土量の数字(南側崩壊部分約四〇立方メートル、北側崩壊部分約一三〇立方メートル)は、道床盛土のみならず、本件リフト擁壁が基礎から崩壊したことによって削られた表層の土量も含んだ数字であるとの証言部分があるが、右数字が、南北崩壊部分とも鑑定人大草重康によるリフト盛土のみの崩壊土量の鑑定結果とほぼ一致すること、〈証拠〉には、「道床盛土の崩壊部分の体積を測量した結果によれば」と明白に記載されていること、証人古藤田喜久雄がその証言においても崩壊土量のうち道床盛土以外の部分の計算根拠を示していないことなどと対比すると同証人の証言部分は、必ずしも正確なものではなく、これによって前記認定が左右されるものではない。

一方、鑑定人大草重康の鑑定書には、本件リフト擁壁直下のえぐられたような形の斜面崩壊の崩壊土量について、北側崩壊部分直下が一二〇〇立方メートル、南側崩壊部分直下が三五〇立方メートルとの記載が、また、〈証拠〉には、北側崩壊部分直下が一一八七・五立方メートル、南側崩壊部分直下が三三七・三立方メートルとの記載があるが、右鑑定書の土量の計算は、北側崩壊部分直下の斜面崩壊の最大の深さを四メートル、南側崩壊部分直下の斜面崩壊の最大の深さを三メートルとしたものであり、〈証拠〉の計算は、北側の最大の深さを三・五メートル、南側の最大の深さを二・五メートルとした計算であるところ、〈証拠〉によれば、北側崩壊部分直下の斜面崩壊の最大の深さは約一・七メートル、南側崩壊部分直下の斜面崩壊の最大の深さは約一・三メートルであることが認められるので、大草重康鑑定人の南北崩壊部分直下の斜面崩壊の土量の計算は、実際より多過ぎるといわざるを得ない。

(四)  本件リフト道床山側斜面の崩壊

(1) 本件リフト道床の山側斜面にある木の柵の上の部分に崩壊した跡が存在し、山側の土砂がリフト道床上に流出していることは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

〈1〉 本件リフト道床山側斜面の崩壊部分から流れ出した土砂の流出跡は、大きく二筋に分かれて道床東側急斜面まで繋がっており、その一筋は、山側斜面の崩壊部分直下から道床面の自然傾斜に沿ってやや広がる形で道床を横切って流れ、他の一筋は、山側斜面の崩壊部分から道床山側排水溝を埋めて北側崩壊部分のほぼ中央付近において道床を横切って東側急斜面に流れている。

〈2〉 本件リフト道床山側斜面の崩壊部分の崩壊土量は、約五立方メートルであるところ、山側崩壊部分直下から道床を斜めに横切っている一筋には、レキが散らばっているが、道床の芝生の上には土砂が薄く堆積しているのみで、山側斜面に生えていた草の堆積はなく、北側崩壊部分中央付近で道床を横切っている一筋には、山側斜面に生えていた草が土砂とともに堆積しているが、堆積した土砂の量は、それほど多くはない。

〈3〉 また、右二筋の土砂流出跡の間のリフト道床面には、土砂の堆積は少なく、芝生が表面に現れているが、レキが一面に散らばっている。

〈4〉 北側崩壊部分の南端の残存リフト擁壁には、山側崩壊部分に生えていた草が引っ掛かっている。

(2) 右土砂及び草等の流出状況からは、山側斜面の崩壊により押し出された土砂・草等が山側排水溝を埋めるとともにリフト道床上に堆積し、その後も降り続く激しい降雨によって押し流された土砂や草は、道床面の南北の勾配と谷側への勾配のために、擁壁裏側部分に滞留してその最下部は、北側崩壊部分の南端部にまで達し、その後二回にわたって発生した北側崩壊部分の崩壊によって、擁壁背後に集まっていた土砂・草が擁壁とともに東側急斜面に流れたと推認するのが相当である。

(3) これに対して、被告は、山側斜面の崩壊は、二回にわたって発生した北側崩壊部分の崩壊の中間に発生したものであると主張し、その根拠として、北側崩壊部分北端の残存するリフト擁壁基礎背面に山側斜面の崩壊によって落下したと思われる岩石がはまり込んでいるとの事実を援用する。確かに、〈証拠〉によれば、被告主張の部分に高さ五〇センチメートル、幅四〇センチメートル位の岩石がはまり込んでいることが認められるが、〈証拠〉によれば、山側斜面からの崩壊土砂は、崩壊部分直下から道床面の自然傾斜に沿って南東方向に道床を横切って流れており、右崩壊土砂の流れと岩石がはまり込んでいた残存擁壁との間の芝生には、土砂が流出した痕跡がないことが認められ、このように崩壊土砂の流出が道床の南北方向の勾配によって南東方向に流れているのに、その中に含まれていた岩石のみ山側崩壊部分から道床上を直角に横切って転がり残存擁壁基礎背面にはまり込むのは不自然であるから、この岩石が山側崩壊部分の落石であるとは断定できず、したがって、岩石が擁壁基礎反面にはまり込んでいる事実も、北側崩壊部分の崩壊が山側斜面の崩壊に先行して発生したことの根拠にはなりえないというべきである。

そして、被告が主張するとおり、山側斜面の崩壊に先行して北側崩壊部分の崩壊が発生していたとするなら、山側斜面に生えていた草等は、すべて東側急斜面に落下してしまい、北側崩壊部分南端にまで達することはなかったものと考えられるので、被告の右主張は、採用することができない。

(五)  南北崩壊斜面の状況

南北崩壊斜面に表土が露出していること、南側崩壊斜面表面上に農道及び階段が残ったこと、南側崩壊斜面上にさといも、お茶の木、みかんの木が残存したこと、北側崩壊斜面において円形水槽が一個残ったことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 北側崩壊斜面は、高さ約八〇メートル、幅約三四メートル、延長約一四三メートル、面積約四〇〇四平方メートルであり、南側崩壊斜面は、高さ約六二メートル、幅約一九メートル延長約一二六メートル、面積約二三九四平方メートルである。

(2) 南北崩壊斜面とも、その最上部は、本件リフト擁壁崩壊部分の直下からえぐられたような形で崩壊しており、この崩壊は、南北崩壊斜面の中ではそれぞれ一単位としては最も大きく、斜面の中・下部には、多数の小単位の崩壊が雨裂とともに複合的に形成されている。

(3) 北側崩壊斜面に残った円形水槽は、北側崩壊斜面の標高八五メートル付近に位置し、右円形水槽は、水槽の山側上端から谷側下端に向けて斜めに切り取られる形で壊れている。

(4) 北側崩壊部分の標高五五メートルから八五メートル付近にかけて、崩壊前の表土であった黒ボクが数個所残っており、標高五五メートル付近にみかんの木が一本、標高二八メートル付近に楠木の切株一本がそれぞれ残存している。

(5) 南側崩壊斜面の標高七五メートルから八二メートル付近にかけては、さといも三本、お茶の木二本、みかんの木三本が崩壊斜面を横断する形で点々と残存しており、残存しているみかんの木の中には、頭を下にした状態で倒れ、その幹の表皮が削り取られているものがある。

(6) 南側崩壊斜面の標高四〇メートルから六五メートル付近にかけては、農道及び階段が縦方向に連続して残存し、標高五三メートル付近には、みかんの木が一本、四五メートル付近には、四角の水槽が残存し、右水槽は、北側崩壊斜面に残存するものと同じく、水槽の山側上端から谷側下端に向けて斜めに切り取られる形で壊れている。

(7) 南側崩壊斜面の標高三五メートル付近には、表層がえぐられたために、犬の骨が露出し、また、標高三〇メートルから四五メートル付近にかけて、数個所崩壊前の表土であった黒ボクが残存している。

(8) 北側崩壊斜面の裾部には人工切取部があり、本件事故以前は、そこに農道の一部として橋が架けられており、また、南側崩壊斜面の裾部には、田村宅裏の玉石積擁壁があったが、本件事故によっていずれも破壊されている。

(9) 北側崩壊斜面裾部の人工切取部からは、本件事故翌日の昭和四九年七月八日に、湧水がみられた。

2  本件事故と過去の柵板工擁壁崩壊事例との比較

(一)  昭和四一年六月二八日に山頂駅の北側部分の柵板工擁壁が崩壊し、また、昭和四三年七月六日にも、本件リフト道床山側斜面と本件リフト擁壁がともに崩壊したことは、当事者間に争いがなく、〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 昭和四一年の事例の場合は、事故前日の六月二七日の夜半から雨が降り出し、六月二八日午後四時頃まで雨が降り続き、二七日の降雨量は二九・八ミリで、二八日の降雨量は二一八・四ミリに達したが、降り始めからの積算雨量が一九〇ミリから二〇〇ミリ位に達した二八日午後一時過ぎ頃、山頂駅北側の本件リフト擁壁と構造が同じである柵板工擁壁が、幅約一〇メートルにわたって基礎もろとも崩壊し、コンクリートブロックと土砂が斜面を約一〇〇メートル程落下して山麓にある竹薮のところで止まった。

(2) 右崩壊によって柵板工擁壁東側急斜面に生えていたみかんの木は、コンクリートブロックとともに山麓まで落ちたが、お茶の木は、斜面に残った株が多く、事故後に再生して芽を出している。

(3) 昭和四一年の柵板工擁壁崩壊後、静岡市は、右崩壊部分から山麓にかけての斜面に、三基の防災ダムを建設した。

(4) 昭和四三年の事例の場合は、事故の数日前から断続的に雨が降り続き、事故前日の降雨量が一五・五ミリ、事故当日の七月六日の降雨量は一二四・五ミリであったが、本件事故で崩壊した本件リフト道床山側斜面と同じ場所が崩れて山側排水溝を埋めたため、山側からの表流水が本件リフト擁壁上端に集中し、本件事故における北側崩壊部分の山頂駅寄りのリフト擁壁が崩壊した。

(5) 昭和四三年の事例においては、昭和四一年の事例と異なり、本件リフト擁壁がその基礎もろとも崩壊したのではなく、擁壁の支柱が一本折れて上方から五枚の柵板が外れる形で倒れたものであり、右崩壊によってリフト道床盛土が東側急斜面のみかんとお茶の畑に流出したが、本件リフト擁壁のコンクリート部材と土砂は、斜面上部で止まった。

(二)  右事実に基づいて各事例を比較すると、本件事故においては、前記1(一)、(二)のとおり、降り始めからの積算雨量二〇〇ミリ前後で崩壊が発生しており、昭和四一年の事例でも、降り始めからの積算降雨量一九〇ミリから二〇〇ミリ位で崩壊が発生しているが、昭和四三年の事例では、崩壊が降雨の最後に発生したと仮定しても、降り始めからの積算降雨量は、一五〇ミリにしかならない。

前記三3(二)(5)のとおり、本件リフト擁壁は、降雨時に道床内の水位が柵板二枚分以上の高さまで上がると基礎もろとも転倒するかあるいは水平に滑って壊れる可能性があるところ、昭和四三年の事例では、本件事故北側崩壊部分の崩壊同様に、リフト道床山側斜面の崩壊が起こり、その後に本件リフト擁壁の崩壊が発生するという経過をたどっているが、降雨量が少なかったので水位が柵板二枚分以上に上がらず、擁壁背面の水圧及び土圧によって支柱が折れ、柵板が外れる形で倒壊するという小規模なものに留まり、昭和四一年の事例では、降雨量が多かったので水位が上がり、柵板工擁壁が基礎もろとも崩壊したものと推認するのが相当である。

そして、柵板工擁壁がその基礎もろとも崩壊した場合には、擁壁基礎がコンクリートの連続基礎で、しかも重量が重いため、柵板と支柱のみが崩壊した場合に比べ落下のエネルギーが遥かに大きいものと推認されるから、擁壁基礎もろとも崩壊した昭和四一年の事例では土砂等が山麓まで落ちたが、柵板と支柱のみが崩壊した昭和四三年の事例では斜面上部で土砂等の流出が止まったものということができる。

(三)  一方、昭和四一年の事故後、斜面に三基の防災ダムが建設されたことから、下部斜面にも崩壊の原因があったのではないかとの疑問が生じるが、お茶の木がさらわれずに斜面上に残ったことを考慮すると、防災ダムが建築されたことのみから、下部斜面において崩壊が発生したものと断定することはできない。

(四)  また、被告は、昭和四一年の事例につき、下部斜面が崩壊したことによって柵板工擁壁が足元をさらわれた形で倒壊したと主張し、鑑定人古藤田喜久雄の鑑定の結果及び証人古藤田喜久雄の証言にはこれに沿う部分があるが、右証言によれば、同人が調査資料にしたとする被告作成の本件リフト施設補修記録にも、下部斜面にパイピング現象等が発生した痕跡を判読できる資料はなかったことが認められ、その他には昭和四一年の事例において下部斜面に崩壊が生じたことを示す証拠はないから、下部斜面が崩壊したことによって柵板工擁壁が足元をさらわれた形で倒壊したとの被告の主張を認めることはできない。

3  本件南北崩壊斜面と賤機山の他の斜面での崩壊との比較

(一)  〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

(1) 証拠保全における鑑定目的物八個所のうち、宮ヶ崎一〇二-一番地の崩壊は、崩壊深度が二メートル以上と深く、他の崩壊個所と比べて長さに対して幅があり、すべり面が一つの大きな単位ですべっていることから、いわゆる円弧すべりに近い斜面崩壊の形状を示しているが、他の七個所は、いずれも表層すべりを中心とする複合的な崩壊の形状を示している。

(2) 宮ヶ崎一〇二-一番地の崩壊斜面頂部には、間知石積み擁壁が設けられてその上部が麓山神社の境内地になっており、南四九六番地の事例では、三筋ある崩壊斜面の一番西側の斜面の頂部に高さ約一・五メートルの玉石積み擁壁が設けられていたが、他の鑑定目的物には、崩壊斜面頂部に人工工作物はない。

(3) 宮ヶ崎一〇二-一番地、大岩一二二八-一一番地、大岩一〇六番地、南四九六番地の各事例には、崩壊斜面裾部に切取り部分があったが、他の鑑定目的物には、切取り部分はない。

(4) 鑑定目的物のうち、大岩一二二八-一番地の崩壊面積が約四〇〇八平方メートル、南九二九番地の崩壊面積が約四五五四平方メートル、松富上組八五五番地の崩壊面積が約二〇五四平方メートルであるが、他の五個所の崩壊面積は、これらに比して比較的小さい。

(5) 斜面の植生は、宮ヶ崎一〇二-一番地が自然林で、井の宮二六九番地が茶畑である外は、いずれもみかんの木が植えられていた。

(6) 松富上組八五五番地の崩壊では、崩壊土砂が住宅を破壊して、七名の犠牲者がでたが、崩壊斜面の裾と破壊された住宅群の間には約一〇〇メートルの距離があり、崩壊斜面の裾部から住宅群の方向に沢が流れていた。

(7) 大岩一二二八-一番地の崩壊斜面最上部では崩壊斜面が三本に分かれ、その先端は、細くなってやや三角形に近い形状となっており、南九二九番地の崩壊斜面上部も二筋に分かれ、やはりその先端は、細くなってやや三角形に近い形状となっている。

(8) 大岩一二二八-一番地の崩壊時刻は、七月八日午前一時三〇分頃で、崩壊発生時刻における推定積算雨量が三一〇ミリであり、松富上組八五五番地の崩壊時刻も同じく七月八日午前一時三〇分頃で、崩壊発生時刻における推定積算雨量が三二〇ミリである。

(9) 本件事故翌日の七月八日には、大岩一二二八-一番地の崩壊斜面下部から多量の湧水がみられ、大岩一〇六番地の崩壊斜面上部から多量の湧水がみられた。

(二)  右事実に基づき、本件南北崩壊斜面と鑑定目的物を比較すると、まず、崩壊斜面上部に人工工作物があるという点では、宮ヶ崎一〇二-一番地と南四九六番地の事例が本件南北崩壊斜面と類似している。そして、宮ヶ崎一〇二-一番地の事例は、多量の雨水が擁壁の背後及び下部斜面の地盤中に浸透し、このことによって斜面の安定が崩れて間知石積み擁壁もろとも円弧状にすべったものと推定されるので、擁壁の存在が斜面崩壊に寄与していないとはいえないが、右事例は、本件南北崩壊斜面に較べるとはるかに崩壊の規模が小さく、また、崩壊面の形状も本件南北崩壊斜面とは異なるので、右事例から本件南北崩壊斜面の崩壊原因を推認することは、相当ではない。

他方、南四九六番地の事例では、三筋ある崩壊斜面の一番西側の斜面の頂部にのみ玉石積み擁壁が設けられており、最上部に玉石積み擁壁が存在しない二筋も同様に崩壊しているので、右崩壊は、擁壁の存在にかかわりなく崩壊したものとみられるが、右玉石積み擁壁は、玉石を積み重ねた簡易なもので、本件リフト擁壁のように重量の大きいコンクリート基礎構造のものではないから、右事例において、右玉石積み擁壁が斜面の崩壊の原因に寄与していないとしても、そのことから直ちに本件リフト擁壁が本件南北崩壊斜面の崩壊に寄与していないと断定することはできない。

(三)  崩壊の規模、斜面裾部の切取り、地下水理現象の存在等の点で、本件南北崩壊斜面と最も類似しているのが大岩一二二八-一番地の事例であり、右事例の場合は、崩壊斜面上部に擁壁等はないが、右崩壊斜面の最上部は、崩壊斜面が三本に分かれ、その先端は、細くなってやや三角形に近い形状となっていて、本件南北崩壊斜面のように本件リフト擁壁の崩壊部分を頂辺とした長方形に近い形状をしておらず、また、大岩一二二八-一番地の崩壊時刻は、七月八日午前一時三〇分頃で、崩壊発生時刻における推定積算雨量は三一〇ミリであって、本件南北崩壊斜面の崩壊より、崩壊時間が遅く、推定積算雨量も多いのであるから、右事例において、斜面上部の工作物が存在しないからといって、本件リフト擁壁の存在が本件南北崩壊斜面の崩壊に寄与しないと断定することもできないというべきである。

(四)  また、多くの犠牲者が発生したという点では、松富上組八五五番地の事例も本件南北崩壊斜面と類似しているが、右事例は、崩壊した土砂が崩壊斜面の裾と破壊された住宅群の間を流れる沢を塞いでダムのようになり、このダムが決壊して土石流となって住宅群を襲った可能性が高いので、本件南北崩壊斜面の崩壊とは形態が異なり、両者を比較することはできない。

4  本件事故の原因

(一)  以上の1ないし3の認定判断に基づき本件リフト擁壁の崩壊原因について検討するに、本件事故においては、南側崩壊斜面で一回、北側崩壊斜面で二回、いずれも雷のような大音響とともに土砂等の落下物が一気に山麓に押し寄せ、崩壊した本件リフト擁壁の部材のうち三分の二程度が山麓まで落下していること、本件南北崩壊斜面には、崩壊を免れた残存物が点在しており、特に、本件リフト擁壁崩壊部分直下のえぐれたような形で大きく崩壊している崩壊面の下に、北側崩壊部分では円形水槽、南側崩壊斜面ではさといも、みかんの木、お茶の木がそれぞれ残存し、右円形水槽及びみかんの木には、上方からの土石流によって削りとられた痕跡があること、本件リフト擁壁は、昭和四三年にも、本件リフト道床山側斜面が崩れて道床山側排水溝を埋めたため本件リフト擁壁背面の水圧及び土圧が上昇して本件事故の北側崩壊部分の一部が崩壊する事故が発生しており、この崩壊の順序は、本件事故の北側崩壊部分の崩壊と同じであること、本件リフト擁壁と構造が同じ山頂駅北側の柵板工擁壁が、昭和四一年に崩壊しており、この時の崩壊も柵板工擁壁が独自に崩壊した可能性が高いこと、七夕豪雨の際に崩壊した他の事例では、崩壊斜面最上部の形状が細くなってやや三角形に近い形状となっているものがあるのに対し、本件南北崩壊斜面が本件リフト擁壁の崩壊部分を一辺とした長方形に近い形状をしていることを総合考慮すると、本件リフト擁壁は、前記二の本件リフト施設の瑕疵によってその背面に土圧及び水圧が加わったことによって、下部斜面の崩壊とは係わりなく独自に崩壊したものというべきである。

(二)  もっとも、本件南北崩壊斜面の中・下部分には、多数の小単位の崩壊が、雨裂とともに複合的に形成されていること、本件事故の翌日に北側崩壊斜面裾部の人工切取部から湧水がみられたこと、本件リフト道床盛土部分の崩壊土量と本件リフト擁壁直下のえぐられたような形の崩壊部分の土量を合わせても、静岡市街路課が調査した南北崩壊斜面下の土砂の搬出量二四〇二立方メートルとの開きが大きいこと、崩壊した本件リフト擁壁の部材のうち約三分の一は、南北崩壊斜面に止まり、そのうち柵板数枚は、未崩壊地の境界部でみかんの木に落下を遮られて止まっていることなどを考慮すると、本件事故が、本件リフト擁壁の崩壊による土石流によってのみ引起こされたと推認することも相当ではない。

これに対し、〈証拠〉には、本件リフト擁壁の崩壊による土石流が本件事故の唯一の原因であるとし、その根拠として、斜面下端に達した時の土石流の速度が秒速一五ないし二八メートルにも達していることを挙げている部分がある。しかし、鑑定人大草重康の鑑定結果によれば、右土石流の速度計算は、別紙建物配置図の円山マンションの壁に一一メートルの高さまで泥水が跳ね上がっていることから土石流の速度を逆算したものであるところ、〈証拠〉によれば、本件事故において、別紙建物配置図の海野宅及び水谷宅が円山マンションに衝突したため、円山マンション一階及び二階のベランダの手すりと物置が壊れていることが認められ、右事実によれば、建物と建物がぶつかり合ったことによって泥が高く跳ね上がった可能性も高く、斜面を落下してきた土石流が地面に衝突してその一部が円山マンションの壁に跳ね上がったことを前提とした大草重康鑑定人の右計算は、前提条件そのものが誤っている可能性がある。更に、右速度計算は、落下した土砂が地面にあたって反発する際の入射角と反射角が等しいとし、土石流及び山麓の地面を完全弾性体と仮定したものであるところ、〈証拠〉によれば、豪雨によって軟化していた本件事故当時の山麓の地盤において、右のような仮定条件を想定することはできないことが認められるので、大草重康鑑定人の右速度計算は、本件リフト擁壁の崩壊による土石流が本件事故の唯一の原因であることの根拠にはなりえないというべきである。

(三)(1) そこで、本件南北崩壊斜面の中・下部の崩壊原因について更に検討する。

〈証拠〉によれば、次の事実が認められる。

〈1〉 本件リフト擁壁東側斜面の地層は、地表面から、透水性の顕著な赤褐色土、黒褐色土、難透水層の黒色土、黄褐色土、その下部に透水性の顕著な風化破砕岩が存在し、場所によっては上位三層(赤褐色土及び黒褐色土と難透水層の黒色土)の順序が異なることもある。

〈2〉 南北崩壊斜面の中・下部には、多数の小単位の崩壊が雨裂とともに形成されているが、斜面全体にわたり、湧水点と推定しうる雨裂内の深い浸食始源点が分布している。

〈3〉 別紙調査図のBV-1ないし9の九個所のボーリング調査の結果によって、BV-3、4、6、7、8から採取したコアーのなかに断層破砕部が含まれていることが判明し、また自然放射能探査の結果によって、別紙調査図のとおり斜めに三筋の異常放射能帯が存在することが判明したことから、本件南北崩壊斜面上には、南西から北東方向にかけて三筋の断層破砕帯の存在が推定しうる。

〈5〉 右九個所のボーリング孔において、表流水の流入しない装置及び自記水位計を設置して昭和五〇年七月七日から同年一〇月一一日まで行った水位観測の結果、別紙調査図のBV-1、2、3(いずれも北側崩壊斜面内)、BV-8(南側崩壊斜面内)の四孔の地下水水頭は、いずれも降雨に極めて敏感に反応して、最大で二・五ないし三・五メートル程度上昇し、この降雨との対応は、先行降雨のある場合に最も顕著に現れることが判明したが、右BV-1、3、8は、いずれも断層破砕帯内にあり、このように、降雨との対応が敏感で、かつ、その上昇高が大きいことが、破砕帯の脈状地下水の特性である。

〈6〉 昭和四九年六月二七日から本件事故の前日の七月六日までの一〇日間の降雨量は、合計二四八ミリ、本件事故当日の七月七日積算雨量二〇〇ミリ前後で本件事故が発生しているが、孔内水位は、右先行降雨によって少なくとも平常水位より七、八メートルは上昇しており、さらに本格的豪雨が開始した午後九時以後本件事故発生までに数メートル上昇していたものと推定できる。

〈7〉 右破砕帯地下水は、基岩内の割れ目を伝わって上昇するが、透水性の低い第三(黒色土)、第四層(黄褐色土)の存在により、地表へは進出することなく基岩内において被圧された状態になり、第三、第四層より上層の土壌に対してアップリフトを与えることになる。

〈8〉 一般に、斜面の安定は、土質工学上、土の剪断抵抗(S)として考えられ、これは、土の摩擦抵抗(R=(P-U)tanφ)と土の粘着抵抗(C)の和S=(P-U)tanφ+Cとして表されている(Pは、土の重量のうち斜面に対する垂直方向に働く力を、Uは、土粒子間の間隙が浸透水によって満たされた場合の間隙水圧を、各φは、土の内部摩擦角をそれぞれ示す。)が、右のアップリフトは、Pと反対方向にこれを減殺する力であるから、間隙水圧と同様に、右の式におけるUの値を増加させ、Pの値を減少させることによって、土の摩擦抵抗を著しく減少させる。

〈9〉 田中茂教授は、北側崩壊斜面の縦方向(東西方向)に別紙調査図の測線「り」、南側崩壊斜面の同一方向に測線「ふ」を設定し、崩壊前後の空中写真の図化により求めた崩壊前後の縦断面形及び鉄筋貫入抵抗試験結果を使用して、南北崩壊面で発生したと思われる縦断測線「り」「ふ」に沿って、すべり面(北側斜面一三個所、南側斜面七個所)を別紙断面図一、別紙断面図二のとおり推定し、前項の粘着力Cと内部摩擦角φを求めるため、南北崩壊斜面の代表的な土であるA土(黄褐色土)、B土(角レキ混黒ボク)、C土(黒ボク)、D土(角レキ混黄褐色土)の四種類の土について三軸圧縮試験を行ったうえ、右推定すべり面毎に、前記AないしD土の四種類の土について、各土の飽和度(土粒子間の空隙中に水の占める割合)を採取時のもの・八〇パーセントのもの・八五パーセントのもの・九〇パーセントのものの四つの場合に分けて、安定計算を行った。

〈10〉 そして、前記〈8〉のとおり、南北崩壊斜面の破砕帯内の地下水頭は、上部の不透水層に対し、強力なアップリフトを加えることによって土の摩擦抵抗を減殺する機能を有しているため、田中茂教授は、各すべり面毎に、本件事故発生時(七月七日午後一二時として計算)に存在していたと推定される破砕帯地下水の水頭線に至るまで、鉛直方向に五〇センチメートル刻みに数段階の水頭線を描き、各段階に水頭線が達したときのすべり面の安定計算を行った。

〈11〉 右本件事故時の破砕帯地下水の水頭線は、前記〈5〉の昭和五〇年七月七日から同年一〇月一一日まで行った水位観測のデーターによって推定されたものであるが、その推定水頭線は、南北崩壊斜面の二次災害防止工事による中断後に再開された別紙調査図のBV-2、3、4、5、11、10、のボーリング孔における水位観測データーを分析して作成されたシュミレーションモデル等に基づく推定水頭線と較べても、概ね妥当な値である。

〈12〉 以上のとおりなされた各推定すべり面毎の安定計算によれば、最深部にあるD土(角レキ混黄褐色土)は、安定率一・〇未満のものはなく、上部三層を形成するA土、B土、C土のすべてが安全率一・〇未満に該当する最も条件の悪い危険すべり面は、別紙断面図一(北側崩壊斜面)の推定すべり面No.-3、12、20、11、と別紙断面図二の推定すべり面No.-16、17、30(南側崩壊斜面)であり、右各推定すべり面は、いずれも異常放射能帯(断層破砕帯)内もしくはこれに跨がって形成されており、右各すべり面における破砕帯内地下水の推定水頭線は、崩壊前の旧地表面を超えている。

〈13〉 これに対し、本件リフト擁壁の基礎部を含んでいる別紙断面図一の推定すべり面No.-1、9、10、18、19(北側崩壊斜面)及び別紙断面図二の推定すべり面No.-4、14、23、24、25、26(南側崩壊斜面)については、安全率がいずれも一・〇を上回っている。

(2) 右事実によれば、北側崩壊斜面のうち最も危険な推定すべり面No.-3、12、20、11及び南側崩壊斜面のうち最も危険な推定すべり面No.-17、16、30は、本件事故時に、破砕帯内地下水が上部にある不透水層に対し強いアップリフトを加え、斜面の安定性を著しく害したことによって崩壊したが、本件リフト擁壁を含む推定すべり面No.-1、9、10、18、19(北側崩壊斜面)及びNo.-4、14、23、24、25、26(南側崩壊斜面)の場合は、本件リフト擁壁崩壊の時点では、それほど地下水の推定水頭線が上昇していなかったために、アップリフトによる崩壊は発生しなかったものと推認するのが相当である。そして、右各推定すべり面は、別紙調査図の「ふ」線と「り」線に沿った狭い幅のすべり面に過ぎないが、本件南北崩壊斜面上には、南西から北東方向にかけて三筋に異常放射能帯(断層破砕帯)が存在しているので、右「ふ」線と「り」線に沿った部分以外においても、この異常放射能帯(断層破砕帯)もしくはこの周辺の斜面においてすべり面が形成されたものと推認することができる。

(四)  被告は、本件南北崩壊斜面の崩壊機構について、前項の危険なすべり面が崩壊すると、これより上手の斜面は、その前面が断ち切られた結果となり、透水層を横浸透していた浸透流がパイピング現象を誘発し、これがきっかけとなって浸水層が崩壊することになるが、浸水層は、本件リフト擁壁及びこれに続く下方斜面では本件リフト擁壁に近づくにつれて厚くなっていたために、このことが唯一の原因となって、本件リフト擁壁が、基礎もろとも崩壊するに至った旨主張し、〈証拠〉には、これに沿う記載ないし証言部分がある。

しかしながら、〈証拠〉には、前記の危険な推定すべり面から本件リフト擁壁に至るまでの浸水層の深さ等を示す具体的な記載ないし証言はなく、かえって、〈証拠〉によれば、地表面に降った雨が浸透性が顕著な土の中を鉛直に浸透し、浸透する能力が今まで浸透してきた土の三分の一程度しかないところに到達すると、浸透水の三分の二が上に溜まって水面が出現して横流れ浸透流が形成されるとされ、一方、前記三3(二)のとおり、本件リフト基礎部での表土層の深さは、平均五〇センチメートル位で、その下にレキ混りシルト層が約二・三メートルの厚さで存在し、〈証拠〉によれば、レキ混りシルト層の浸透能は、表土である赤褐色土及び黒褐色土の浸透能の三分の一以下であることが認められるので、右横流れ浸透流による浸水層の破壊は、仮にこれが発生したとしても、本件リフト擁壁直下においては、厚さ約五〇センチメートルの表土内に留まるものとみられ、したがって、右の程度の表層の崩壊によって、基礎がレキ混りシルト層に根入れされていた本件リフト擁壁が、その基礎からさらわれて崩壊することはありえないというべきである。

また、前記1(三)、(五)において判示したとおり、本件リフト擁壁崩壊部分直下のえぐれたような形で大きく崩壊している崩壊面の下に、北側崩壊部分では円形水槽、南側崩壊斜面ではさといも、みかんの木、お茶の木がそれぞれ残存しているから、右部分においては、下からの崩壊が上手に波及したと推認し難いこと及び本件リフト擁壁直下の崩壊面の最大の深さは、南側崩壊部分において一・七メートル、南側崩壊部分において一・三メートルであることからすれば、本件リフト擁壁直下において、厚さ約五〇センチメートルの表土内における横流れ浸透流による浸水層の崩壊が発生した可能性も低いというべきである。

したがって、南北崩壊斜面中・下部の危険なすべり面が上手に波及し、このことが唯一の原因となって本件リフト擁壁を崩壊させたとの被告の右主張は、たやすく採用し難く、本件リフト擁壁は、前記(一)のとおり、背面からの土圧・水圧によって独自に崩壊したと推認するのが相当である。

(五)  そして、本件リフト擁壁の崩壊と斜面の中・下部の崩壊の前後関係については、〈証拠〉によれば、南北崩壊斜面の深く刻まれた雨裂のなかに崩壊した本件リフト擁壁基礎のコンクリートブロックがはまり込んだ状況で止まっていたことが認められ、右事実によれば、中・下部の斜面の雨裂が形成された後に本件リフト擁壁が崩壊した可能性の方が高いということができるが、前記1(二)(1)のとおり、本件事故時においては、雷のような大音響とともに土砂等の落下物が一気に山麓に押し寄せており、大崩壊が起こるまでは南北崩壊斜面からの土砂流出が少なかったことからすると、本件リフト擁壁が、中・下部斜面の崩壊より先に、あるいは中・下部斜面の崩壊とほぼ同時に崩壊した可能性の方が高いとも考えられるので、結局、両者の前後関係を確定することは困難であるという外ない。

5  結論

(一)  以上のとおり、本件事故は、本件リフト擁壁の崩壊と斜面の中・下部が、それぞれ独自に崩壊したことによって発生したものというべきところ、前記1(三)及び3の各認定事実並びに〈証拠〉によれば、南側崩壊斜面から押し寄せて土砂その他の落下物によって田村宅納屋3が斎藤宅に突っ込み、北側崩壊斜面から押し寄せた土砂その他の落下物によって、原告望月宅の一階が壊されて足元をすくわれた形で建物が北側へ傾き、別紙物件目録(三)、(四)、(五)、(六)記載の各建物(別紙建物配置図の岡村宅・高橋宅・水谷宅・海野宅等)が全壊し、斎藤宅にも土砂が侵入したこと、北側斜面からの土砂等の落下物によって、斎藤宅から松源寺方向に向かった亡富美枝及び亡康次が生き埋めになり、亡富美枝(死因は窒息死)の遺体は、別紙建物配置図の〈ロ〉の位置で、亡康次は、瀕死の重症(間もなく内蔵破裂で死亡)で同図の〈ハ〉の位置で発見されたこと、崩壊した本件リフト擁壁部材の約三分の二は山麓に落下し、本件事故後、各建物敷地跡から多数の本件リフト擁壁部材が発見されたこと、斜面を流下する土砂の中にコンクリートブロックが含まれている場合には、それが含まれていない場合に較べてはるかに破壊力が大きいこと、証拠保全における鑑定目的物のうち、本件南北崩壊斜面と崩壊の規模・形態等が最も類似している大岩一二二八-一番地の事例においては、崩壊斜面下にあった農家の母家が半分ちぎれて下手の蔵に衝突した被害が発生したが、本件事故のような大規模な災害には至らなかったことが認められ、また、前記1(三)のとおり、本件リフト擁壁の崩壊を原因とする崩壊土砂量は、本件リフト道床盛土分が、南北両側崩壊部分合計約一六三立方メートルで、その直下のえぐれたような斜面崩壊の分を合わせるとその数倍になるのであり、更に、本件リフト擁壁部材が落下する際に南北崩壊斜面の土砂を相当量削り取り、擁壁部材と斜面の土砂が斜面下に落下したことは、経験則上容易に認めることができるものであるから、前記3(三)の破砕帯地下水理現象による斜面中・下部の崩壊がなかったとしても、本件リフト擁壁の崩壊によって、原告らの損害は発生し得たものと推認するのが相当である。

よって、本件リフト施設の瑕疵と原告らの全損害との間には、相当因果関係があるというべきである。

(二)  これに対し、〈証拠〉には、北側崩壊斜面直下にあった別紙建物配置図の原告望月宅が、建物一階が壊されたのみで、建物の二階特に屋根が殆ど無傷な状態であること、同じく北側崩壊斜面直下にあった松源寺の車庫の屋根に損傷がないこと、南側崩壊斜面直下の田村宅納屋3も本件リフト擁壁部材によって完全に粉砕されることなく泥流によって押し流されてるのみであることなどから、本件事故によって破壊された建物は、本件リフト擁壁部材の落下による直接的衝撃によって壊されたものではなく、いずれも泥流によって破壊されたものであって、本件リフト擁壁部材は、その落下時に既に裾部に堆積していた軟らかい土砂の堆積物の中に落下し、その浮力を受けつつ、山裾よりある程度の距離水平に押し流されていったものと判断しうるとの記載部分がある。

しかし、前認定の本件事故の状況に鑑みれば、本件リフト擁壁の部材を含む土砂が、擁壁の崩壊後斜面を落下し、望月宅一階を突き抜けて別紙建物配置図の高橋宅、岡村宅、海野宅、水谷宅等の建物敷地に突入し、また、本件リフト擁壁部材を含む土砂によって田村宅納屋3が押し流されたと推認することも不自然ではないし、かえって、〈証拠〉の記載部分のように、山裾に落下した本件リフト擁壁部材が、その後の山側からの泥流によって、徐々に押し流されて円山マンションに至るまでの建物敷地に散らばったとすることは、前記1(二)の雷のような轟音とともに土砂等の落下物が一気に押し寄せたという本件の事故状況には合致しないというものというべきであるから、〈証拠〉の右記載部分も、本件リフト擁壁の崩壊がなければ、原告らの損害が軽微なものに終ったものとする前記の認定を左右するには足りないという外ない。

五  被告の責任

以上一ないし四において認定判断したとおり、被告が所有し、かつ、占有している本件リフト施設には、設置及び保存の瑕疵が存在し、右瑕疵ないし崩壊と原告らの損害との間には、相当因果関係が存在するものと判断するのが相当であるから、被告は、民法七一七条一項に基づき、原告らが本件事故によって被った損害を賠償する責任があるというべきである。

六  損害

1  原告斎藤利秋の損害

(一)  亡富美枝の損害

(1) 動産 金三〇〇万円

〈証拠〉を総合すると、亡富美枝は、本件事故当時六二歳であり、昭和四九年四月に定年退職するまで約二五年間にわたって学校給食の調理師として静岡市役所に勤務し、退職当時には月平均金一九万六〇〇〇円の収入を得ていたこと、亡富美枝は、本件事故当時三男原告斎藤定明(本件事故当時三〇歳)、長男亡康次(本件事故当時三八歳)、その妻訴外斎藤いさ子、両名の子健一と同居しており、亡康次は、静岡県庁に勤務し月平均金一八万四〇〇〇円の収入を、原告斎藤定明は、楽器店「すみや」に勤務し月平均金一一万円の収入をそれぞれ得ていたこと、亡富美枝が本件事故当時居住していた建物は、延床面積が、少なくとも六六平方メートル以上あり、右建物には、カラーテレビ、洗濯機、冷蔵庫、和ダンス、洋ダンス等通常の家庭にあるものは備えられ、庭には盆栽が多数あったこと、亡富美枝は、反物を多数集めていたがその価額は不明であること、これらの家財は、いずれも田村宅納屋3が突っ込み、土砂が侵入したことによって、使用不能になったことが認められる。

そして、亡富美枝宅内にあった個々の家財の購入価額及び本件事故時までの減価割合を証す証拠はないが、右認定事実によれば、亡富美枝の家庭は、亡富美枝、原告斎藤定明、亡康次の合計月収金四九万円(年収約金五八八万円)があり、これに見合った家財を有していたというべきであるから、次善の方法として、右の程度の年収の世帯が通常有している家財の時価を求めて、この価額から亡富美枝宅内の家財の損害額を推定することも許されるものと解されるところ、〈証拠〉によれば、社団法人日本損害保険協会発行の「保険価額評価の手引き」の中の「家財簡易評価表」では、昭和五四年四月現在における世帯主の年齢五〇歳前後(五〇歳以上を含む。)、世帯主の年収金七六〇万円前後、収容建物の面積六六平方メートルないし一一五平方メートル前後の標準世帯の家財の時価評価額は、金六五〇万円、世帯主の年令及び収容建物が同じで年収が金五三〇万円未満の世帯の家財の時価評価額は、金五五〇万円とされていることが認められ、右事実によれば、亡富美枝宅内の家財の損害額は、本件事故後の物価上昇を考慮しても、金六〇〇万円程度であったと推認するのが相当であり、亡富美枝宅の家族構成を考慮すれば、その二分の一が同女の所有に属していたものというべきである。

(2) 逸失利益 金六六九万七五一七円

前記(1)のとおり、亡富美枝は、本件事故当時六二歳で、事故時には、静岡市を退職して無職であったところ、六二歳の婦人の平均就職可能年令は七年というべきであり、無職者(主婦)の逸失利益算定については、賃金センサス第一巻第一表の「産業計・企業規模計・学歴計の年令階級別平均給与額表」を基準とするのが相当である。そして、昭和四九年の賃金センサス第一巻第一表の「産業計・企業規模計・学歴計の年令階級別平均給与額表」によれば、六二歳の女子労働者の年間給与額は、金一〇四万二九〇〇円、昭和五〇年の同表によれば、六三歳の女子労働者の年間給与額は、金一二〇万四八〇〇円、昭和五一年の同表によれば、六四歳の女子労働者の年間給与額は、金一二五万三二〇〇円、昭和五二年の同表によれば、六五歳の女子労働者の年間給与額は、金一四六万六八〇〇円、昭和五三年の同表によれば、六六歳の女子労働者の年間給与額は、金一四九万七一〇〇円、昭和五四年の同表によれば、六七歳の女子労働者の年間給与額は、金一五八万一九〇〇円、昭和五五年の同表によれば、六八歳の女子労働者の年間給与額は、金一七三万五五〇〇円、昭和五六年の同表によれば、六九歳の女子労働者の年間給与額は、金一八〇万五二〇〇円であり、亡富美枝の場合控除すべき生活費を三割とするのが相当であるから、中間利息の控除につきライプニッツ式計算法を用いて死亡時における同女の逸失利益の現価額を算定すると、次の算式のとおり、金六六九万七五一七円となる。

一〇四万二九〇〇円+一二〇万四八〇〇円+一二五万三二〇〇円+一四六万六八〇〇円+一四九万七一〇〇円十一五八万一九〇〇円+一七三万五五〇〇円+一八〇万五二〇〇円=一一五八万七四〇〇円

一一五八万七四〇〇円÷七年×五・七八(一-〇・三)=(約)六六九万七五一七円(一円未満切捨て)

原告斎藤利秋は、昭和五二年の賃金センサス第一巻第一表の「産業計・企業規模計・学歴計の年令階級別平均給与額表」による年間給与額を金一四八万六六八〇円とし、右金額に毎年のベースアップ分年五パーセントを加算して昭和五六年の年間給与額を金一八〇万七〇六七円として、右金額にホフマン係数を掛けて逸失利益を算出しているが、右計算方法は、そもそも不確定なベースアップを毎年五パーセントとして加算するうえ、亡富美枝が、昭和四九年から昭和五六年までの全期間にわたって、昭和五六年における推定年間給与額を取得するものと仮定するものであって相当ではなく、採用の限りではない。

(3) 慰藉料 金七〇〇万円

亡富美枝は、長年にわたり調理師として働きながら子供達を育て、ようやく子供達が独立し、これからの余生を楽しく生きようとしていた矢先に本件事故により生命を失うに至ったのであるから、その精神的苦痛に対する慰藉料額は、金七〇〇万円が相当である。

そして、亡富美枝の相続人は、原告斎藤利秋を含む三名の子であるから、原告斎藤利秋は、右(1)、(2)、(3)の合計金一六六九万七五一七円の三分の一にあたり金五五六万五八三九円(一円未満切捨て)を相続したものというべきである。

(二)  原告斎藤利秋の休業損害 金六万円

〈証拠〉によれば、原告斎藤利秋は、名古屋市に所在する芳山プレス工業所に金型工として勤務していたが、本件事故の被災処理のため、昭和四九年七月八日から約一〇日間連続して休業し、その後も二日に一回位の割合で休業したため、昭和四九年七月は、同年五月及び六月に較べて労働日数が一六日減り、そのため、右両月に較べて金六万円を下らない賃金の減額をされたことが認められる。

(三)  原告斎藤利秋自身の慰藉料 金一五〇万円

原告斎藤利秋は、本件事故によって母親富美枝と兄康次を一挙に失ったものであり、その精神的苦痛を慰藉するには、金一五〇万円が相当である。

(四)  弁護士費用 金七〇万円

〈証拠〉によれば、原告斎藤利秋は、弁護士に本件訴訟提起及び追行を委任し、相当額の手数料及び報酬を支払う旨約したことが推認されるところ、本件事案の性質上、原告斎藤利秋が被告に対し請求しうる弁護士費用の損害は、金七〇万円が相当である。

(五)  以上のとおり、原告斎藤利秋の損害は、金七八二万五八三九円というべきである。

2  原告斎藤定明の損害

(一)  亡富美枝の相続分 金五五六万五八三九円

原告斎藤定明は、亡富美枝の三男であり、したがって、亡富美枝の前記1(一)の損害金一六六九万七五一七円の三分の一にあたる金五五六万五八三九円を相続したものというべきである。

(二)  動産 金七五万円

前記1(一)のとおり原告斎藤定明は、本件事故当時三〇歳で、楽器店「すみや」に勤務して月収金一一万円を得ていたが、独身であり、また、亡富美枝と同居していたため、同項記載の亡富美枝宅内の家財総額金六〇〇万円のうち、原告斎藤定明の所有に属する家財は、八分の一程度の割合であったと推認するのが相当であり、したがって、同原告は、本件事故によって、金七五万円相当の動産を失ったというべきである。

なお、原告斎藤定明は、原告斎藤定明の動産損害として、亡富美枝宅の家財の八分の一に原告斎藤定明所有のステレオの損害(時価金一〇万円)を加えて主張しているが、前記1(一)の「家財簡易評価表」の家財の時価評価額は、家族が所有する家庭用電器具類等を含めたものであるから、原告斎藤定明所有のステレオの価額は、亡富美枝宅の家財の総額金六〇〇万円に含まれているというべきであり、これを更に加算することは、同一の動産を二重評価することになるので相当ではない。

(三)  原告斎藤定明の慰藉料 金二〇〇万円

原告斎藤定明は、原告斎藤利秋と同様に母と兄を一時に失う精神的苦痛を受けただけではなく、本人自身も事故現場において生命の危険にさらされ、かつ、家財も失ったものであり、その精神的苦痛を慰藉するには金二〇〇万円が相当である。

(四)  弁護士費用 金八〇万円

原告斎藤定明が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(一)に判示したと同様の理由により、金八〇万円が相当である。

(五)  以上のとおり、原告斎藤定明の損害額は、金九一一万五八三九円というべきである。

3  原告望月鴻男の損害

(一)  不動産 金三七〇万七〇〇〇円

前記一1(一)のとおり、原告望月鴻男は、本件事故当時別紙物件目録(一)記載の建物を所有していたところ、〈証拠〉によれば、右建物は、北側崩壊斜面から押し寄せた土砂その崩壊の落下物によって一階部分が壊され、かつ、二階部分を支える柱がとれて建物が北側に傾いたため、建物全体が使用不能になったこと、右建物と同じ様な木造亜鉛メッキ鋼板葺二階建の建物の建築費は、本件事故当時で坪当り金二五万円から金二六万円位、昭和五六年八月の時点で坪当り金三二万円位であること、右建物は、昭和二六年に建築されたもので本件事故時で経過年数が二三年であることが認められ、右の建築費の高騰は、インフレーションが進行中であった昭和四九年当時において予見可能であったというべきであるから、原告望月鴻男が請求しうる損害額は、新築費用を少なくとも坪当り金三〇万円として算出するべきであると解され、また、〈証拠〉によれば、坪当りの新築費が金三〇万円から金三七万円である木造の住宅専用建物については、推定耐用年数が五三年、経年減価率(一年)が一・五パーセントとするのが通常であることが認められ、別紙物件目録(一)記載の建物は、右の場合に該当するものというべきであるから、これらを前提に原告望月鴻男の建物の損害額を算出すると、次の算式のとおり金三七〇万七〇〇〇円(千円未満切捨て)を下らないものというべきである。

新築費 三〇万円×一八・八六六坪=五六五万九八〇〇円

減価率 一・五パーセント×二三年=三四・五パーセント

減価控除額 五六五万九八〇〇円×〇・三四五=一九五万二六三一円

五六五万九八〇〇円-一九五万二六三一円=三七〇万七一六九円

(二)  賃料相当額の損害 金五二万五〇〇〇円

前記一1(二)のとおり、原告望月鴻男及びその家族は、本件事故当時、別紙物件目録(一)記載の建物に居住していたところ、〈証拠〉によれば、原告望月鴻男及びその家族は、本件事故による建物倒壊のため転居を余儀なくされ、昭和四九年七月一七日から同五二年八月までの間、静岡市井宮町一〇二番地所在の建物を賃借りして居住し、同四九年七月から同五一年六月まで月額金一万四〇〇〇円、同四九年七月から同五二年八月までは月額金一万五〇〇〇円の賃料を支払ったことが認められるので、原告望月鴻男は、少なくとも賃料合計金五二万五〇〇〇円の損害を被ったというべきである。

(三)  動産 金五五〇万円

〈証拠〉によれば、原告望月鴻男は、本件事故当時四四歳で、妻の原告望月春枝、長女の原告望月基久子(本件事故当時中学三年生)及び長男の原告望月均(本件事故当時中学一年生)とともに別紙物件目録(一)記載の建物に居住していたこと、原告望月鴻男は、大工であり、本件事故当時月平均金一三万七五〇〇円の収入を得ていたこと、本件事故によって、右建物内の家財は、二階に置いてあった子供の布団、机、学用品以外はすべて使用不能となったこと、原告望月鴻男は、家財以外にも、右建物内に時価金五〇万円相当の大工道具一式(電動工具を含む)及び時価金五万円相当のオートバイを所有していたが、本件事故によっていずれも使用不能となったこと、原告望月鴻男は、その所有の自動車が本件事故によって土砂の中に埋まったため、その修理代として約金一五万円を支出したことが認められる。

そして、前記1(一)の亡富美枝宅内の家財と同様に、原告望月鴻男宅内の個々の家財の購入価額及び本件事故時までの減価割合を証する証拠はないが、前記1(一)のとおり、このような場合には、右の程度の年収の世帯が通常有している家財の時価を求めて、この価額から原告望月鴻男宅内の家財の損害額を推定することも許されるものと解されるところ、〈証拠〉によれば、社団法人日本損害保険協会発行の「保険価額評価の手引き」中の「家財簡易評価表」では、昭和五四年四月現在における、世帯主の年収金五〇〇万円未満、収容建物の面積六六平方メートル前後という世帯の家財の時価評価額は、夫婦の所有分が金四八〇万円、小・中学生以下の家族一名の所有分が各々金三〇万円とされていることが認められ、原告望月鴻男には、中学生の子二人がいたが、子供たちの机、布団、学用品等は使用不能とはならなかったのであるから、原告望月鴻男の家財の損害は、金四八〇万円程度であったと推認するのが相当である。

したがって、原告望月鴻男の動産の損害は、右金四八〇万円に、オートバイの金五万円、大工道具の金五〇万円、自動車の修理代金一五万円を加えた金五五〇万円となる。

なお、原告望月鴻男は、動産の損害額として、家財の時価評価額にピアノの損害(時価金三八万円相当)を加えて主張しているが、「家財簡易評価表」の家財の時価評価額は、趣味・娯楽用品を含めたものであるから、ピアノの価額は、原告望月鴻男宅の家財金四八〇万円に含まれているというべきであり、これを更に加算することは、同一の動産を二重評価することになるので相当ではない。

(四)  体業損害 金一三万七五〇〇円

〈証拠〉によれば、原告望月鴻男は、大工として本件事故当時日当金五五〇〇円の収入を得ていたが、本件事故後の被災処理のため二五日間休業せざるを得なかったため、合計金一三万七五〇〇円の収入を得ることができず、右と同額の損害を被ったことが認められる。

(五)  慰藉料 金八〇万円

原告望月鴻男は、本件事故当時現場において生命の危険にさらされ、また、建物及び家財のほとんどを失ったものであり、その精神的苦痛を慰藉するには、金八〇万円が相当である。

(六)  弁護士費用 金一〇〇万円

原告望月鴻男が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により、金一〇〇万円が相当である。

(七)  以上のとおり、原告望月鴻男の損害額は、金一一六六万九五〇〇円というべきである。

4  原告望月春枝の損害

(一)  慰藉料 金五〇万円

原告望月春枝は、本件事故の際、子供達とともに生命の危険にさらされ、かつ、家財のほとんどを失ったものであり、その精神的苦痛を慰藉するには金五〇万円が相当である。

(二)  弁護士費用 金五万円

原告望月春枝が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により、金五万円が相当である。

(三)  したがって、原告望月春枝の損害額は、(一)、(二)の合計金五五万円というべきである。

5  原告望月基久子と原告望月均の損害 各金二〇万円

前記3(二)のとおり、原告望月基久子は、原告望月鴻男の長女で本件事故当時中学三年生、原告望月均は、原告望月鴻男の長男で本件事故当時中学一年生であったところ、いずれも本件事故当時現場において生命の危険にさらされたのであるから、その精神的苦痛を慰藉するには各金二〇万円が相当である。

6  原告有限会社円山の損害

(一)  建物修繕費 金四三〇万二五〇〇円

〈証拠〉によれば、原告有限会社円山所有の別紙物件目録(二)は、本件事故によって損傷し、同原告は、その修理費として合計金四三〇万二五〇〇円を支出したことが認められる。

(二)  家賃収入を失った損害 金一九二万七二三五円

〈証拠〉を総合すると、本件事故当時、有限会社円山は、別紙物件目録(二)の建物の一〇一号室を鈴木枝美子に賃料金三万八〇〇〇円で、一〇二号室を黒田俊夫に金三万八〇〇〇円で、二〇一号室を小柳政一に駐車場使用料を含めて金四万三〇〇〇円で、二〇二号室を株式会社西武百貨店に金三万八〇〇〇円で、三〇一号室を牧野悦子に駐車場使用料を含めて金三万九〇〇〇円で、三〇二号室を新山秀太郎に駐車場使用料を含めて金三万九〇〇〇円で、四〇一号室を荒木徹子に金三万八〇〇〇円で、四〇二号室を内藤喜久に金三万九〇〇〇円でそれぞれ賃貸していたが、右建物の修繕等のために、一〇一号室は昭和四九年七月から同五〇年四月まで、一〇二号室は同四九年七月から同五〇年二月まで、二〇一号室は同四九年七月から同五〇年二月まで、二〇二号室は同四九年七月から同五〇年二月まで、三〇一号室は同四九年七月から同年一〇月まで、三〇二号室は同四九年七月から同年一一月まで、四〇一号室は同四九年七月から同年一〇月まで、四〇二号室は昭和四九年七月から同年一〇月までの間いずれも賃料を得ることができず、よって、一〇一号室については金三七万一九〇〇円、一〇二号室については金二九万五九〇〇円、二〇一号室については金三三万一四三五円、二〇二号室については金二八万六〇〇〇円、三〇一号室については金一四万七〇〇〇円、三〇二号室については金一八万六〇〇〇円、四〇一号室については金一五万二〇〇〇円、四〇二号室については金一五万六〇〇〇円、合計金一九二万七二三五円の得べかりし賃料を失ったことが認められる。

(三)  石灯籠の損害

原告有限会社円山は、本件事故によって有限会社円山所有の石灯籠一基が全壊し、金五〇万円の損害を被った旨主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はない。

(四)  弁護士費用

原告有限会社円山が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により、金六〇万円が相当である。

(五)  以上のとおり、原告有限会社円山の損害額は、金六八二万九七三五円というべきである。

7  原告片山京子の損害

(一)  別紙物件目録(三)記載の建物の損害 金一七七万〇一七九円

前記一1(三)のとおり、原告片山京子は、別紙物件目録(三)記載の建物を所有していたところ、〈証拠〉を総合すれば、別紙物件目録(三)記載の建物は、賃貸することを目的として昭和二九年八月に建築されたものであること、右建物は、本件事故当時、岡村ひさ及び高橋良典に賃貸され、その賃料は、岡村ひさが月額金七〇〇〇円、高橋良典が月額金七三〇〇円であったこと、右建物の固定資産税額は金八九八円であったこと、右建物は、本件事故によって全壊したことが認められる。そして、このような貸家用建物の場合は、建物の家賃収入を失ったことによる損害をもって、建物滅失による損害と評価するべきであるところ、賃料年額から固定資産税額を控除し、建物の耐用年数を三五年とし、中間利息の控除につきライプニッツ式計算法を用いて建物滅失時における賃料の逸失利益の現価額を算出すれば、次の算式のとおり金一七七万〇一七九円となり、この価額が右建物の損害額になるというべきである。

一七万一六〇〇円(賃料年額)-八九八円(固定資産税額)=一七万〇七〇二円(各年利益)

三五年-二〇年=一五年 ライプニッツ係数一〇・三七

一七万〇七〇二円×一〇・三七=(約)一七七万〇一七九円(一円未満切捨て)

これに対して、原告片山京子は、別紙物件目録(三)記載の建物の残存価格と右建物の家賃収入の逸失利益の損失の両方を請求し、家賃収入の逸失利益の計算において、各年利益から各年の建物償却額を控除するという計算方法に基づく主張をしているが、右計算方法では、建物の利用価値がなくなったことを前提として、右時点での建物の残存価値の全額を請求しながら、他方で、建物の残存価値を一年毎に逓減させてはいるものの、耐用年数が経過するまでは建物が存続するものとして家賃収入の逸失利益を請求するものであって、建物の利用価値を重複して評価することにほかならず、相当とはいえない。

(二)  別紙物件目録(四)記載の建物の損害 金四八四万九六九九円

前記一1(三)のとおり、原告片山京子は、別紙物件目録(四)記載の建物を所有していたところ、〈証拠〉を総合すれば、別紙物件目録(四)記載の建物は、賃貸することを目的として昭和四六年一〇月に建築されたものであること、右建物は、本件事故当時、水谷知生に賃貸しており、その賃料は、月額金二万六〇〇〇円であったこと、右建物の固定資産税額は金五〇五七円であったこと、右建物は、本件事故によって全壊したことが認められる。そして、前記(一)と同様の計算方法により建物滅失時における賃料の逸失利益の現価額を算出すれば、次の算式のとおり金四八四万九六九九円となり、この価額が右建物の損害額になるというべきである。

三一万二〇〇〇円(賃料年額)-五〇五七円(固定資産税額)=三〇万六九四三円(各年利益)

三五年-三年=三二年 ライプニッツ係数一五・八

三〇万六九四三円×一五・八=(約)四八四万九六九九円(一円未満切捨て)

なお、原告片山京子は、別紙物件目録(四)記載の建物の残存価格と家賃収入の損害の両方を請求する計算方法を主張をしているが、右主張が相当ではないことは、前記(一)のとおりである。

(三)  弁護士費用 金七〇万円

原告片山京子が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により、金七〇万円が相当である。

(四)  以上のとおり、原告片山京子の損害額は、金七三一万九八七八円というべきである。

8  原告片山百合子の損害

(一)  別紙物件目録(五)記載の建物の損害 金一六八万四八〇〇円

前記一1(三)のとおり、原告片山百合子は、別紙物件目録(五)記載の建物を所有していたところ、〈証拠〉を総合すれば、別紙物件目録(五)記載の建物は、賃貸することを目的として昭和三〇年八月に建築されたものであること、右建物は、昭和四八年に別紙物件目録(二)記載の共同住宅を建築する際の荷物置き場とするために昭和四七年から空き家になっていたが、右共同住宅の建築が終了したので、本件事故当時、不動産仲介業者に月額金一万三〇〇〇円で賃借人を募集するように頼んでいたこと、別紙物件目録(五)記載の建物及びその周りの貸家は、静岡市の中心街に近い場所に位置しているので借り手が多かったこと、別紙物件目録(五)記載の建物は、未登記であって固定資産税が賦課されていなかったことが認められる。そして、このような貸家用建物であって、賃借人が継続する可能性が高い建物については、滅失当時に現実に賃借人が存在しなくとも、得べかりし家賃収入を得られなくなった損害をもって、建物滅失による損害と評価するべきであるところ、前記7(一)と同様の計算方法により建物滅失時における賃料の逸失利益の現価額を算出すれば、次の算式のとおり金一六八万四八〇〇円となり、この価額が右建物の損害額になるというべきである。

一五万六〇〇〇円(賃料年額)-〇円(固定資産税額)=一五万六〇〇〇円(各年利益)

三五年-一九年=一六年 ライプニッツ係数一〇・八

一五万六〇〇〇円×一〇・八=一六八万四八〇〇円

なお、原告片山百合子は、別紙物件目録(五)記載の建物の残存価格と家賃収入の損害の両方を請求する計算方法を主張をしているが、右主張が相当ではないことは、前記7(一)のとおりである。

(二)  弁護士費用 金一六万円

原告片山百合子が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により、金一六万円が相当である。

(三)  以上のとおり、原告片山百合子の損害額は、金一八四万四八〇〇円というべきである。

9  原告片山明彦の損害

(一)  別紙物件目録(六)記載の建物の損害 金三二〇万一六〇〇円

前記一1(三)のとおり、原告片山明彦は、別紙物件目録(六)記載の建物を所有していたところ、〈証拠〉を総合すれば、別紙物件目録(六)記載の建物は、賃貸することを目的として昭和三二年八月に建築されたものであること、右建物は、本件事故当時、海野和夫に賃貸しており、その賃料は、月額金二万三〇〇〇円であったこと、右建物には固定資産税が賦課されていなかったこと、右建物は、本件事故によって全壊したことが認められる。そして、前記1(一)と同様の計算方法により建物滅失時における賃料の逸失利益の現価額を算出すれば、次の算式のとおり金三二〇万一六〇〇円となり、この価額が右建物の損害額になるというべきである。

二七万六〇〇〇円(賃料年額)-〇円(固定資産税額)=二七万六〇〇〇円(各年利益)

三五年-一七年=一八年 ライプニッツ係数一一・六

二七万六〇〇〇円×一一・六=三二〇万一六〇〇円

なお、原告片山明彦は、別紙物件目録(六)記載の建物の残存価格と家賃収入の損害の両方を請求する計算方法を主張しているが、右主張が相当ではないことは、前記7(一)のとおりである。

(二)  弁護士費用 金三〇万円

原告片山明彦が請求しうる弁護士費用の損害は、前記1(四)に判示したと同様の理由により金三〇万円が相当である。

(三)  以上のとおり、原告片山明彦の損害額は、金三五〇万一六〇〇円というべきである。

七  結論

以上のとおり、原告らの本訴請求は、被告に対し、原告斎藤利秋が金七八二万五八三九円、原告斎藤定明が金九一一万五八三九円、原告望月鴻男が金一一六六万九五〇〇円、原告望月春枝が金五五万円、原告望月基久子が金二〇万円、原告望月均が金二〇万円、原告有限会社円山が金六八二万九七三五円、原告片山京子が金七三一万九八七八円、原告片山百合子が金一八四万四八〇〇円、原告片山明彦が金三五〇万一六〇〇円とこれらに対する不法行為の日の翌日である昭和四九年七月八日から完済に至るまで民法所定の年五分の割合により遅延損害金を求める範囲で理由があるからいずれもこれを認容するが、その余の各請求は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条一項をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 塩崎 勤 裁判官 中山幾次郎 裁判官 松津節子は、転補のため、署名捺印することができない。裁判長裁判官 塩崎 勤)

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